山上の垂訓より

「人からしてほしいと思うことは全て、人にもしなければなりません。」(マタイ7章12節)

これはイエス・キリストが教えた有名な言葉です。「山上の垂訓」の中で語られました。「黄金律」(ゴールデン・ルール)と呼ばれています。これを聞くと、「この言葉は、自分より相手のためになるものだ」と思うかもしれません。そうなのでしょうか?
 この言葉の前に、イエスはこう語っています。
「裁くのをやめなさい。裁かれないためです。人を裁いているのと同じ仕方で、自分も裁かれ、人に量って与えるのと同じはかりで、人からも量って与えられます。」(マタイ7章1,2節)
 

「人を裁く」とは、人を責めたり批判したりすることです。人は鏡のように反応するものなので、相手に向けた言葉や感情は、そのまま自分に返ってきます。親切な言葉や行動には親切な言葉や行動が返ってきます。悪意のある言葉や行動には、悪意のある言葉や行動が返ってくるのです。ですから「自分にしてほしいことを人にする」のは、人のためではなく自分のためになるのです。
 イエスの言葉と言えば、「汝の敵を愛せよ」というものも、よく知られています。これはどういうことでしょうか?マタイ5章43~45節に次のように書かれています。
「あなたたちは、こう命じられたのを知っています。『隣人を愛し、敵を憎まなければならない。』しかし私は言います。敵を愛し続け、迫害する人のために祈り続けなさい。自分が天にいる父の子であることを示すためです。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです。」
 

親である人は、子供たちに仲良くしてほしいと思います。たとえ性格や行動に問題がある子であっても、幸せでいてほしいと願うものです。神から見れば、人類はみな子供のようなものです。憎み合い敵対し合うのは、神にとって大変悲しいことに違いありません。ですから、敵をも愛するように努力する人は、神に喜ばれます。子供が良いことをすれば、親は嬉しく思います。ふさわしければ「ごほうび」を与えたいと思うでしょう。神も良い人に「ごほうび」を与えたいと願っています。マタイ6章4節にはこう書かれています。
「憐みの施しをするとき、偽善者たちが人から称賛を受けようとして会堂や街路でするように、施す前にラッパを吹いてはなりません。はっきり言いますが、その人たちは報いを全部得てしまっています。憐みの施しをするときには、右手がしていることを左手に知らせてはなりません。憐みの施しをひそかにするためです。そうすれば、ひそかに見ている父が報いてくださいます。」
 神が報いを与えられることは、箴言19章17節にも記されています。
「立場が低い人に親切にする人はエホバに貸しており、神はその行いに報いてくださる。」

立場が低い人への親切な行いを、神は自分の「借り」と受け取られることが分かります。
 しかし現代では、神など眼中にない人々が非常に多くなっています。神を無視しても、幸せになれるのでしょうか?ガラテア6章7、8節を見てみましょう。
「思い違いをしてはなりません。神はご自分を侮る者を大目に見ることはありません。人は自分がまいているものを必ず刈り取ることになります。罪深い欲望のままにまいている人は、罪深い欲望によって腐敗を刈り取り、聖なる力に導かれてまいている人は、聖なる力によって永遠の命を刈り取ることになるのです。」
 
子供が親を馬鹿にするなら、人間の親でも大目に見たりはしないでしょう。神は全てを見通すことができるのです。「ばれなきゃいい!」と神を侮る行動をするのは恐ろしいことです。物事全て「自業自得」の結果になります。「神は愛」とあるように、良い報いを与えたいと願う神なのですから、神を喜ばせる努力をすることは、決して無駄にはなりません。

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