ライフストーリー

〈美雪〉
かつての美濃の国、今の岐阜県の中ノ元村に、森川啓太郎、たま夫婦が住んでいた。彼らには三人の子供が生まれた。明治38年に生まれた美雪は二人目だった。美雪の兄は啓一、弟は松一といった。美雪は成長し小学校に入学した。明治19年に出された小学校令により、尋常小学校が義務教育になり、明治40年の改正で4年から6年に延長されていた。しかし当時は、子供も働き手と考えられていた。農民だった啓太郎も、当然ながら学校教育をそれほど大切だとは考えていなかった。美雪は学校が好きだったが、農作業の手伝いのためよく休まされた。でも雨の日には学校に行かせてもらえる。それで美雪は雨の日が好きになった。

明治5年の日本の人口は3480万人、それが明治37年には4631万人になった。30年あまりで1000万人以上増えている。美雪が生まれたのは、経済が発展し人口が増えていく時期だった。大正、昭和初期も発展は続いた。しかし教育についていえば、戦前およそ9割の人が、高等小学校が最終学歴だった。そして美雪もその一人になった。娘時代には裁縫を習った。大正時代だから和裁である。着物も布団も主婦が縫う。令和の時代には考えられないことだが、当時はそれが当たり前だった。

大正時代の末期、年頃になった美雪に縁談が来た。互いを知るための交際期間など当時はない。人となりもわからぬまま、隣村の青木良治に美雪は嫁いだ。姑はあいといった。よくある話だが、美雪にとっても嫁の立場は辛いものだった。電気製品もない時代、家事は重労働だったし、田や畑でも働かなければならなかった。赤ん坊が生まれると、「いずこ」というカゴに入れてあぜに置き農作業をした。当時の農村の母親の多くは、赤ん坊を常に見ていることはできなかった。そのため、時には赤ん坊がネズミにかじられることがあったという。口の周りに乳のにおいがするからだ。幸いなことに、美雪の子供はネズミにかじられはしなかった。

労働もきつかったが、美雪にとって一番辛かったのは空腹だった。食事中にあいに嫌味を言われるため、十分に食べることができなかったのだ。授乳期の母親は普段よりさらにお腹がすく。ある夜、子供を背負った美雪は川に来て、飛び込んで死のうかとさえ思った。しかし、子供のことを考えて思いとどまったのだった。

そんな中でも、美雪は岐阜で4人の子供を産んだ。4人目を妊娠した時だったか、「生まれたら養子にくれ」と言われたことがあった。いったんは了承したものの、生まれてみれば可愛くて、「この子が一番かわいい!」とその話を断った。その後、一家に大きな転機が訪れることになる。

(つづく)

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