アキラの地雷博物館とこどもたち
中学2年生の英語の教科書に出てくる、カンボジアのアキ・ラーさん。生徒に説明するため調べていて、彼の著作のことを知り購入した。2年くらい前のこと。その本が「アキラの地雷博物館とこどもたち」である。
三省堂の人が支援をしていて、この本を買うとアキラさんに印税が入るそうだ。
授業で生徒に紹介し、本の一部を読んで聞かせた。
「アキラの依頼博物館と子どもたち」より抜粋
〈こどもグループ〉
わたしはカンボジアの北西部、アンコールワットの遺跡があるシェムレアップの郊外で生まれました。生まれた年も月日も、よくわかりません。歳とった女の先生の記憶によると、1973年ころだそうです。
ポる・ポト軍がカンボジアで政権を握ったのは、1975年です。
わたしは赤ん坊のころに家族と離されて、「こどもグループ」で育てられました。「こどもグループ」には10人くらいのこどもと、親がわりになる大人が1人か2人いて、同じ家で共同生活をしていました。
〈父のこと〉
父と母にはめったに会えませんでした。父と母は、5キロほど離れた別々の村で暮らしていました。
ポル・ポト軍は、機械を使うことを禁止したので、農作業はすべて人力でした。人々は家畜のようにスキをひいて、何時間も畑で働きました。
配給の食べものはほんの少しで、米のオカユばかりだったので、みんな、みるみるうちに栄養失調になっていきました。
父は、もとは学校の先生でしたが、道路をつくる仕事をさせられ、栄養失調と過労で、すぐ思い病気になりました。入院して薬をもらえることになったのですが、薬といっても、飲み薬はウサギの糞、点滴は木の根っこで染めた色水でした。
当然、10日たっても父の病気は治りません。ある日、大きなボールに栄養たっぷりのスープをもらった父は、ひどく飢えていたので、一気に飲み干してしまいました。父がスープを飲み終わると、ポル・ポト軍は、父がスープをもらいたくて仮病を使ったととがめ、父を連行して罰として殺してしまいました。それ以来、わたしは病気になっても、こわくてだれにも言えませんでした。言ったらどうなるかわかったからです。
〈母のこと〉
ポル・ポト時代、母の仕事は、家庭の糞尿(うんこやおしっこ)を集めることでした。畑の肥やしにするためです。糞尿をだせない家の人は罰としてひどい目にあわされたので、母は、その家の人に、泥と水をまぜて糞尿に見せかけなさいと教えました。
母はポル・ポト軍にすぐれた労働者と評価され、コメの配給係と服の仕立て係に昇格しました。
母にはいつも見張りが何人かついていましたが、見張りがよそ見をしているすきに、母は村の人に配給する米を、こっそりふやしてあげていました。お返しに村の人から小動物をもらい、村の病人に食糧として届けるのです。こうやって、お互いに生き延びるために助け合ったのです。
ある日、ははがつかまりました。老人がつまずいて食べものをこぼしそうになったので、「気をつけて!」と声をかけたのが「罪」とされたのです。ポル・ポト兵はこのチャンスを見逃しませんでした。なにしろ彼らは「パイナップルの目」をもっているんですから(パイナップルのように頭のうしろにも目がついているから見落とすことはないぞ、という脅し文句です)。
彼らは母を連行し、学校へ連れていくと言いました。ポル・ポト軍は、学校と教育をきびしく禁止していたので、「学校へ行く」ということは、もう二度ともどってこられないという意味でした。それで、わたしはこどものころ、学校はこわいところだと思っていました。
後記事へつづく
三省堂の人が支援をしていて、この本を買うとアキラさんに印税が入るそうだ。
授業で生徒に紹介し、本の一部を読んで聞かせた。
「アキラの依頼博物館と子どもたち」より抜粋
〈こどもグループ〉
わたしはカンボジアの北西部、アンコールワットの遺跡があるシェムレアップの郊外で生まれました。生まれた年も月日も、よくわかりません。歳とった女の先生の記憶によると、1973年ころだそうです。
ポる・ポト軍がカンボジアで政権を握ったのは、1975年です。
わたしは赤ん坊のころに家族と離されて、「こどもグループ」で育てられました。「こどもグループ」には10人くらいのこどもと、親がわりになる大人が1人か2人いて、同じ家で共同生活をしていました。
〈父のこと〉
父と母にはめったに会えませんでした。父と母は、5キロほど離れた別々の村で暮らしていました。
ポル・ポト軍は、機械を使うことを禁止したので、農作業はすべて人力でした。人々は家畜のようにスキをひいて、何時間も畑で働きました。
配給の食べものはほんの少しで、米のオカユばかりだったので、みんな、みるみるうちに栄養失調になっていきました。
父は、もとは学校の先生でしたが、道路をつくる仕事をさせられ、栄養失調と過労で、すぐ思い病気になりました。入院して薬をもらえることになったのですが、薬といっても、飲み薬はウサギの糞、点滴は木の根っこで染めた色水でした。
当然、10日たっても父の病気は治りません。ある日、大きなボールに栄養たっぷりのスープをもらった父は、ひどく飢えていたので、一気に飲み干してしまいました。父がスープを飲み終わると、ポル・ポト軍は、父がスープをもらいたくて仮病を使ったととがめ、父を連行して罰として殺してしまいました。それ以来、わたしは病気になっても、こわくてだれにも言えませんでした。言ったらどうなるかわかったからです。
〈母のこと〉
ポル・ポト時代、母の仕事は、家庭の糞尿(うんこやおしっこ)を集めることでした。畑の肥やしにするためです。糞尿をだせない家の人は罰としてひどい目にあわされたので、母は、その家の人に、泥と水をまぜて糞尿に見せかけなさいと教えました。
母はポル・ポト軍にすぐれた労働者と評価され、コメの配給係と服の仕立て係に昇格しました。
母にはいつも見張りが何人かついていましたが、見張りがよそ見をしているすきに、母は村の人に配給する米を、こっそりふやしてあげていました。お返しに村の人から小動物をもらい、村の病人に食糧として届けるのです。こうやって、お互いに生き延びるために助け合ったのです。
ある日、ははがつかまりました。老人がつまずいて食べものをこぼしそうになったので、「気をつけて!」と声をかけたのが「罪」とされたのです。ポル・ポト兵はこのチャンスを見逃しませんでした。なにしろ彼らは「パイナップルの目」をもっているんですから(パイナップルのように頭のうしろにも目がついているから見落とすことはないぞ、という脅し文句です)。
彼らは母を連行し、学校へ連れていくと言いました。ポル・ポト軍は、学校と教育をきびしく禁止していたので、「学校へ行く」ということは、もう二度ともどってこられないという意味でした。それで、わたしはこどものころ、学校はこわいところだと思っていました。
後記事へつづく
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